高麗尺、唐尺

万葉集を読みなから、百済と新羅の尺度法はどのようなものだったのか(?)気になったので、調べてみた。(飛鳥万葉奈良時代のことなので、高麗尺は当然高句麗尺のことだ。)

愛知県立大学大学院国際文化研究科論集11(https://aichi-pu.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=244&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=17)の、「古代韓・日(日・韓)の文化交流 ―相通じる古代東アジア世界―」を発表した尹善泰先生(プロフィール不明)が、次のように述べている。

「中国の尺度制の伝播過程が日本の場合なぜ高句麗を通じて行われ たのか、古代日本の尺度制成立過程における高句麗の役割は何だったのかをよ く考えるべきだと思う。」

「高句麗尺はどのように誕生したのだろうか。高句麗尺を直接使用した新羅と 古代日本に注目する必要がある。」

「高句麗尺を使用した新羅と古代日本の共通的基盤 から見て、無理な判断ではないと思う。 一方、高句麗と百済は両国とも楽浪・帯方郡を通じて同じ時期に中国文化を受け入れたが、律令の受容と変容過程に大きな差が見られる。これは尺度制 からも明らかである。百済から出土した尺で見ると、中国と大差なく後漢尺、 南朝尺、唐尺を順番に取り入れて、そのまま使用したことが分かる 13。」

「百済を高句麗尺文化圏に入れることは資料で裏付されない。」

古代日本が高麗尺を取り入れたのは、直接高句麗との交流からでなく、新羅を経由してだと想像していたが、

古韓尺を提唱している学者がいる。

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